嗣永桃子の憂鬱


「ちょっと休憩入れま〜す。15分後に再開しますんで」スタッフの声にスタジオの緊張感が和らぐ。
ローティーン向けのファッション雑誌から飛び出してきた様な衣装を着た女の子達がスタジオの隅のテーブルや椅子へとわらわらと集まってくる。

「ちょっとみや〜、それアタシのカップだよ〜」
「あー、ホントだ、ごめん」
梨沙子チョコビ食べる?」
「ちょっとメイクさんに髪の毛直してもらってくる〜」
女の子達の声がスタジオ内に響き渡る。

そんな様子を休むことなくハンディカメラで撮影するスタッフ。
ここでは休憩シーンの映像も貴重な商品なのだ。

女の子達は慣れたものでカメラに向かって手を振ったり、適当におあいそしたりしながら好き好きに休んだり、テーブルの上の雑誌を開いたりしていた。
アイドルユニット、Berryz工房、現場の誰にとっても見慣れた光景だった。

「ちょっと桃子大丈夫?」
一番年下の菅谷梨沙子が少し心配そうな声を出す。
グループ内最年長の高校生ながら、身長は中学生の梨沙子と変わらないというより、むしろ小さな嗣永桃子が、椅子に座り込んでテーブルに顔をつっぷしている。

「うーん、ちょっと休ませて」
メンバー内でも一番のアイドルキャラの桃子がカメラの前で疲れた様子を見せるのは珍しい。
ファンからは「嗣永プロ」「アイドルサイボーグ2号」などと称され、同性からは「ぶりっ子」と陰口を叩かれてもけして自分のキャラを崩さない桃子。
そんな桃子が珍しく本当にしんどそうな顔をみんなの前に晒していた。

「ホントに大丈夫?」
別のメンバー徳永千奈美が声をかける。
「大丈夫だから」桃子はそう言って右手だけを上げて、手をひらひらとさせた。
「でもぉ」千奈美は本気で心配そうにしている。

「桃子だって疲れてる時もあるよ。そっとしとこ」
キャプテン、このユニットのリーダーである清水佐紀がそう言う。
「ぶりっ子キャラやりすぎじゃないのお?」ちょっと冷たい感じで須藤茉麻(まあさ)が言う。
ふくよかな風貌からファンの間ではお母さんキャラとして扱われているが、当人は如何にも今時の女子中学生で、よくも悪くもカラッとしている。
「うるさ〜い」桃子はテーブルにつっぷしたままで弱弱しく反応した。

「まあまあ、いいじゃん。そっとしておこうよ」メンバー一のノッポさん熊井友理奈があまり気にかけない様子で話を止めた。
もうひとりのメンバー夏焼雅はヘアメイクを直してもらうために、メンバーの集まるテーブルを離れていた。

「ところでさあ」まあさが桃子の様子には興味無い様子で話を変えた。
「ゆりな、昨日なんでレッスンサボったのさ?」
「いやー、ちょっと調子悪くてさ。でももう治ったから平気だよ」声変わりのしていない少年の様な声で、ゆりなが答える。
「ホントにぃ?」まあさはいぶかしげな顔でゆりなを見た。
「あんたまさか」まあさはゆりなの両肩をがっしりと掴んで真正面から顔を見合わせた。
「オトコじゃないでしょうね?」

「ちょっとちょっと」キャプテンの佐紀がその会話に割って入る。
「まあさ、カメラ回ってるんだから、不穏な事言わないの!!」

「はいはいすみませ〜ん」まあさは肩をすくめた。
「全くもう」佐紀は少し困り顔だ。
別にまあさには悪気があるわけでは無いのだ。ただ、物言いがストレートすぎることがあって、他のメンバーやスタッフを慌てさせることがあった。


ガタン、椅子を思い切り後ろにずらしながら、桃子が立ち上がった。
「ちょっと」何かを言いかけた桃子は口を両手で押さえて慌ててスタジオの出口に向かった。
何事かと慌てるスタッフには何も言わずに女性用の洗面所に駆け込む。
「うぇえええええ」
個室に駆け込むまで我慢できず、桃子は洗面台の上で軽く吐いた。
といっても、吐瀉物はほとんど出てこない。ただ吐くほどに気持ち悪く我慢できなかったのだ。
「うぇええええええ」何も出てこないにもかかわらず、桃子の呻き声が洗面所内に響いた。

「ちょっと桃ちゃん大丈夫?」誰かが桃子の背中をさすってくれていた。
少し楽になった桃子はゆっくりと後ろを振り返る。
「ありがとう、千奈美
後ろでは千奈美が本当に心配そうな表情で桃子の顔を覗き込んでいた。
普段中学生らしい、というよりも小学生っぽい明るさでメンバーを引き付ける千奈美
まだまだ人に優しさを見せることに慣れていない未成熟な少女達の中で、千奈美の明るさと優しさは桃子にとって、少なからず救いだった。

「あの、桃ちゃん?」
千奈美はおずおずと何かを聞こうとした。
「何?」
桃子は口元をハンカチで拭き、洗面台をお湯で流しながら言葉を返す。
「あの、まさか、アレ?じゃないよね?」
千奈美は曖昧な聞き方をしたがその意図は十分に伝わった。
最近、事務書の先輩達に立て続けに起こったスキャンダラスな出来事。
それほど親しく無いにしても、顔見知りの人たちに起こった様々な事件が彼女達にも影を落としていた。
「もう、そんなんじゃないよ。ただ体調が悪かっただけ」
桃子はなんとか笑顔を作って笑った。
これは、そんなことじゃない。もっと違う何か。

これまで自分の体に無理をさせてきたツケが回ってきたのだろうか?
自分が「プロ」と言われるくらいのアイドルで居るために必要だったこと。
それが自分の体を蝕み始めている。
もう限界だろうか?

「桃ちゃん?」
だまりこんだ桃子に千奈美が更に心配そうな声を出す。
「もう、大丈夫だから。先に戻ってて。本番に遅れるとキャプがうるさいよ?」
桃子はそう言って洗面所から千奈美を追い出した。

洗面台の反対側の壁にもたれて大きく深呼吸する。
顔を両手でぺちぺちと叩いて、にっこりと微笑み、自分の顔を鏡で確認する。
「よし、今日も可愛い」桃子は両の拳をぐっと握り、鏡に向かって声を出してみる。
道重さん、使わせてもらいましたよ。いつも鏡に向かって同じ事を言っているという、事務所の先輩アイドルの顔が脳裏に浮かぶ。

「嗣永ー、大丈夫?撮影再開するよ?」洗面所の外からマネージャーの声が聞こえてきた。
なかなか戻らない桃子を心配してきたのだ。
「大丈夫でぇ〜す」
桃子はそう叫び返すと、鏡に向かって直立不動の姿勢をとった。
握っていた左拳の中で小指だけを開いて立ててみる。
嗣永桃子再起動。心の中でそんな風に念じて、桃子は洗面所の扉を開き、外に出た。